By: Kazusei Akiyama, M.D.
2020年8月
物事の本質を曝露させたコロナかな。
このコラムの24人の読者様、コロナ禍の「新しい生活様式」(註1)に馴染んで来られてますか?このところ、5回連続でコロナ関連のひとりごとだったので、今月はもうしないぞと周囲に言っていたのですが、食言してしまいます。サンパウロ市では一通り第一波が落ち着き、規制緩和が進んでますが、ブラジル全体では6週間連続で死者が1日1000人以上を維持し、この原稿を書いている時新型コロナウイルス感染症死者数が8万7千人近くなっています。ブラジルを含む米州全体の感染拡大の理由は諸説提示されてますが、その一つに欧米文化の個人主義があるのではないかと思います。各自が意見を持ち、それに従って行動する事が是とされる文化は今回のコロナ禍対策が必要とする社会一体の取り組みでは脆弱性を表します。例えば、当地では新しい生活様式を「novo normal、”新しい正常”」と呼ばれる様になってますが、馬鹿馬鹿しくて笑えてしまうのが、「正常とはなんだ」「正常は人によって違うだろう」「貴方の正常は自分にはそうでない」といった様な論説が多々散見する事です。
『新しい生活様式は別に各個人の人権や人格を否定しているものではなく、単なる「感染症対策として」普段しなかった行動を生活に取り入れるだけの問題だろ。』
- 註1:またかですが、新しい生活様式、または新しい生活習慣とは、「身体的距離確保」「マスク着用」「手洗い」をベースに、換気するとか、健康管理するとか、接触を避ける食事の仕方とか、各行政が提言しているコロナ対策。
コロナウィルスを含む、感染症、つまり伝染病の完璧な対策は「病原体に接触しない」であることは簡単に理解できますよね。伝染病に対する予防医学の大前提が「物理的隔離」と「病原体の排除」です。エイズや梅毒の様に一定の行為やマラリアやデングなど一定の場所に特異した伝染病とは違い、コロナは基本的に「人間である事」だけが感染する条件です(註2)。もちろん貧富の差で「感染する確立」や「治癒する確立」の違いはありますが(註3)、これは単に隔離や排除できる経済的余裕の違いだけであり(註4)、生物学的には誰でも罹患します。ちゃんとした教育を受けてないため、状況がわかっていない人達も沢山いますが、それら以外に周りの人間の行動を観ていると、コロナの防疫は自分は関係ないみたいな人結構いますね。サンパウロでいわゆるリベラル派が多い地域では、”保守派政権が提言する事などしないぞ”といった行動に基づく輩や(註5)、日本でもニュースになっていた”マスクなしで外出していたため罰金を科され激高した司法裁判所判事”(註6)のような特権階級意識のため「マスクしない派」がいます。
『リベラル派であろうが、特権階級であろうが、そんな事、ウイルスにわからん。感染するのですけどね。』
- 註2:感染しにくい人やしない人などもいるようですが、この場合の議論と関係ありません。
- 註3:いうまでも無く、富裕層の方が自宅隔離やテレワークなどができ、罹患してもより早くより良い医療にアクセスできるので死亡率が比較的低い。サンパウロ市の疫学調査では、社会経済的底辺は上層部に比べると感染確率は3倍。
- 註4:適当な栄養分を摂取できるかもありますな。
- 註5:ポル語でrebeldia ignorante、無知な反抗と呼ばれてますな。
- 註6:7月18日にサントス市でマスクなしで海岸を歩いていたサンパウロ州司法裁判所判事が市の警備隊にマスク着用を求められ拒否したため、市の条例に基づき罰金を科したところ、「字を読めるのか」と罵り、罰金書類を破り捨て、警備隊の上司にクレームすると強迫した事件。その前日も同じような事をしていた。
人間は国家や家族、会社といった共同体を維持する事で社会を作ってます。今回のコロナ禍で全人類、今まで経験したことの無い状況におかれてます。マスク着用や手洗いなどはともかく、人類の存続を危うくする身体的距離(註7)を取らないと命の危険がある(かもしれない)これまで踏み入れたことのない世界を現在我々は生きてます。この様な究極の状況に人間おかれると、本質が出るものです。新しい生活様式は他の言い方では「うつさない、うつされない」行動です。これには結局なにが基本的必要かというと、他人に迷惑をかけない、命を奪わないといった「道徳」(モラル)ではないでしょうか?(註8)
- 註7:子孫ができませんね。
- 註8 :前述の判事などは、沈没する船から一番に救助艇に乗り移るタイプですな(笑)。
感染症に対する道徳も心配ですが、大変危欋すべきではないかと思うのが現在の社会で盛んになっている「遡及的道徳」に基づいたキャンセルカルチャー(cancel culture)です。遡及的道徳とは、「現行の道徳」に合致しない「昔の」行動や作品、あるいはそれらの発言者や作者を批判・攻撃する事です。最近おこった、米国の警官による黒人殺人事件が引き金となったブラック・ライブズ・マター抗議の一環で、黒人奴隷に関する歴史的産物や芸術作品を否定する運動にまで発展してます。筆者が大変びっくりしたのが、映画「風と共に去りぬ」を抹消すべきといった運動です。確かに以前から黒人奴隷の歴史を美化した人種差別作品と言われてきてます。しかし、映画作成の教科書的な面などもある重要な作品であることは間違いないですし、映画が作成された時代、そして作品が模写する時代を反映する内容であることを考慮すべきだと考えます(註9)。キャンセルカルチャーは現行の価値観に沿わないモノ(人や組織)をすべて抗議、否定、キャンセル、削除、侮蔑、非売運動などをする行動に至り、主にSNSなどネットで拡散します(註10)。社会の周辺にいる人達が”声を拡大し、不利な現状に挑戦する行為”だと言われます。しかし、キャンセルカルチャーの視点で見ると、人は善か悪かの選択しかなく、その中間や又違った余地がまったくない。米国初の黒人大統領であったオバマ氏すら、気に入らないモノに対して草々に見切りをつけ、接触を完全に拒絶する姿勢は慎むべきであると説いています。
- 註9 :気に入らないから自分は観ないのであれば、それは勝手だけど、それを他人に押しつけるのはどうか。
- 註10:この様な批判を始める人物は「道徳的グランドスタンディング(moral grandstanding):道徳的な話を利用して自分自身の社会的地位の促進を目指す」をして社会的に優位に立とうとする事が多いように見えます。
現在我々が生きている世界は、良いも悪いも今まで人類が渡ってきた歴史の賜物です。帝国主義や奴隷制度があって、有害であったモノだったからこそ、現在そのようなコトにならないような社会を築いているのではないでしょうか?間違いから学び、場合によっては責任をとり、そこから得た教訓をみんなで共有し、社会をより良くするのが真の道徳であると思います。リベラルな社会では言論の自由を最重要視しますが、自分たちには言論の自由がないと言って、言論の自由を脅かしている事がわかっていない。異なる意見や価値観を受け入れることによって、学ぶ事も多いし、個人の意識の向上になると思います。保守的な特権階級もその特権を失う危険があるので、自分達の価値観を固持するので、結果的には同等ですね。
『結局は自分自身を高めるのではなく、他人を見下して、自分のレベルに合わせている。幼稚園だな。マスク不使用も同じ。先が思いやられる。』