By: Kazusei Akiyama, MD
2017年06月
今月のひとりごと:『ポルトガルは日本人にとって身近です。』
先日学会出張のついでにリスボンへ行ってきました。一度は行きたい場所の一つで、もちろんブラジルの宗主国であるので当地の原点を観たいのでした。このコラムの24人の読者様の中でも既にポルトガル旅行されてると思うので重複するのはお許しいただいて、少し感想させていただきます。全体はまあのんびりした所で、首都のリスボンでもヨーロッパの田舎といった感じです。この街は西ヨーロッパの一番古い都市であるので、本当に歴史を感じます。ポルトガル人はスペイン人と共に最初に大航海時代に乗り出し、ブラジルを含める大植民地を構築した訳ですが、同じように大植民地を持った英国と比べると、宗主国に残った富はそれ程でも無いように見えます。植民地支配の件ではポルトガル自体その英国に最終的に奪取された史実があるので、ブラジルから出た財宝はあまりポルトガルに残らなかったのだなと思いました。特に感激したのは2点あります。一つは料理で、魚の焼き具合が絶妙であった事です。ちゃんとしたレストランでも街の屋台でも流石と思わせてもらえました。もう一点はTorre de Belémベレンの塔です。この場所からポルトガル人は航海に出て、ブラジルや更に遠い日本まで行ったと思うと感動しました。
リスボンから長崎までは本当に遠いですよね。それを16世紀に木造の船で航路を確定した人間の根性は脱帽ものです。あまりにも遠すぎるし、当時の航海技術ではいっきにポルトガルから日本まで行けた訳ではありません。航路も1498年にインド航路を作り(註1)、ゴアを拠点に(註2)東アジアへ進出し、ようやく1543年に種子島にたどり着いた訳です。この時点ではポルトガル船ではなく、漂着した中国船にポルトガル人が乗っていたと歴史に書いてありますが、凄いのが、その7年後の1550年にはViagem do Japãoと名付けられたゴア発長崎着の航路が確定している事です(註3)。それから1639年の鎖国で南蛮人追放がおこるまで1世紀近くポルトガルと日本の交流は続き、現在まで日本に影響を残しているわけですね。表1は日本語に残るポルトガル語をまとめてみました。
ポルトガル大航海時代の生還率は約20%であったそうで、遭難、難破、襲撃、疫病(註4)、などで4/5が途中で倒れたという凄い統計です。16世紀はそのような時代なので、当時のポルトガルの平均寿命約30歳(註5)と現在では少し考えられない(註6)状況でした。現在(2014年度)の平均寿命が日本83.59歳、ポルトガル80.72歳(註7)であることを考えると、人類は本当に長寿になったと言えます(註8)。
表1:日本語になったポルトガル語
日本語 |
ポルトガル語 |
備考 |
コップ |
copo |
|
パン |
pão |
|
タバコ |
tabaco |
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ボタン |
botão |
|
シャボン |
sabão |
日本では石けん水の玉、ポル語石鹸 |
ビスケット |
biscoito |
|
合羽 |
capa |
|
かるた |
carta |
花札も西洋の輸入品目 |
金平糖 |
confeito |
|
襦袢 |
gibão |
|
如雨露 |
jorro |
|
おんぶ |
ombro |
ポル語、肩の事 |
ビードロ |
vidro |
日本ではガラス細工、ポル語ガラス |
ビロード |
veludo |
|
カステラ |
castella |
スペインカステーラのパンの略 |
ブランコ |
branco |
balançoバランソから転じたとの説も |
南瓜 |
camboja |
ポルトガル人がカンボジャから持ち込んだから |
天ぷら |
tempero |
ポル語では料理の下味をつける意 |
木乃伊 |
mirra |
ミイラを作成する時の薬がミイラそのものを指すようになった |
註1:1488年にアフリカの喜望峰を通過してから10年かかってますね。
註2:ゴアは最近の1961年までポルトガルの植民地支配だった!
註3:季節風を利用するため、年に1度の航海であった。
註4:特に壊血病、新鮮な野菜や果物不足のためビタミンC不足による病気。
註5:日本の平均寿命は約33歳。
註6:現在でもアフリカでは平均寿命30歳代が存在します。
註7:ちなみにブラジル74.40歳。
註8:この飛躍には公衆衛生、食糧の改善がほとんどで、医学の進歩の貢献は10%程度と言われる。